仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より
無財の七施 ~だれでも出来る仏道修行 七つのほどこし
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施は布施のことです。ほどこしをすることです。読経のお礼として僧侶にさしあげるものばかりが布施ではありません。
仏教では布施を施すことを最も大切な仏道修行としております。「施しは無上の善根なり」と云う言葉もあります。施しとは、物でもお金でも、今それを必要とする人々のために心を込めて捧げることであります。しかし、どんなに尊い仏道修行でも、無いものは捧げることが出来ません。
ここに財持が無くても出来る施しがあります。無財の七施で私どもの善根をみがきましょう。
観世音菩薩(観音さま)とか虚空蔵菩薩(虚空蔵さま)と云われる菩薩と云うことは、求道者、仏道修行者と云う意味を持つもので、仏教の信者として六波羅蜜(六度=布施(ほどこし)・持戒(規律)・忍辱(たえしのぶ)・精進(努力)禅定・(おちつき)・智慧(学ぶ))を実践実行しなければならないとされている。
その第一にあげられている「布施」こそが、菩薩であることの必須条件なのである。
普通に「布施」と云えば、財施、法施、無畏施の三種類が云われる。
この三種の中の財施と云うのは、むさぼる心とか、おしいと思う心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などの物資を必要とする人にあたえることを云う。
法施とは、物質財物をあたえるのではなく、おしえを説いてきかせると云った、相手の心に安らぎをあたえること、精神面でつくすことを云う。
無畏施とは、恐怖や不安、おびえおののきなどを取り除いて、安心させることを云う。
しかし世に中には、施すべき財もなく、そしえる智慧もなし、ましてや人様の恐れおののきなどを取り除いてやることなど思いもよらない、と云う人の方が圧倒的に多い。それでは信仰があっても仏教の実践など出来ないことになってしまう。
しかし、雑法藏経の中で釈尊は、財力や智慧が無くても七施として、七つのほどこしが出来ることを教え示している。無財と云うのは、費用も資本もそして能力も使わないで実行できる布施のことである。その七つの布施とは、
一、眼施(慈眼施)
いつくしみのまなこ、やさしい目つきですべてに接することである。
二、和顔施(和顔悦色施)(わがんえつしきせ)
いつも和やかに、おだやかな顔つきをもって人に対することである。
三、愛語施(言辞施)
ものやさしい言葉を使うことである。しかし叱るときはきびしく、愛情こもったきびしさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言うのである。
四、身施(捨身施)
自分の体で奉仕すること。模範的な行動を身をもって実践することである。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。
五、心施(心慮施)(しんりょせ)
自分以外のもののために心をくばり、心底から、ともによろこんであげられる、ともに悲しむことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれるようになることである。
六、壮座施(そうざせ)
わかり易く云えば、座席をゆずることである。つかれていても、電車の中ではよろこんで席をゆずることを言う。さらには、自分のライバルのためにさえも、自分の地位をゆずっても悔いないでいられること。
七、房舎施(ぼうしゃせ)
雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブぬれになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動をすることである。
以上が無財の七施であるが、すべて仏の立場に立っての慈悲の実践なのである。
お金が無くても、地位が無くても、何の持ち合わせが無くとも、簡単なようでむつかしいことではあるが、いつでも、どこでも、誰に対してでもできることである。
世の中には、「布施」と云うことは、持てる者が、持たざる者に対して「めぐむ」ことであると考えている人が非常に多い。
布施をめぐむと考えることから、他のために一生懸命につくしても「してやったんだ」と云う気持ちが、心のすみのどこかに巣つくってしまうのである。これでせっかくの布施の行も、ほどこしとはならないのである。
他のもののためにつくしても、役立つことが出来たとすらも考えようとしないのが、本当の布施の内容なのである。
布施と云うむづかしい仏教語を使うからややこしくなるのである。わかり易い日本語の「よろこんでもらうこと」と言い換えたらどうであろう。
よろこんでもらう方法は、なにも「無財の七施」に限ったことではない。
人のよろこび、かなしみを、わがよろこび、かなしみとする心に、菩薩道があると考える。
人をよろこばすことを考えて、それを実践すること「布施」を私たち法華信徒の仏道実践の徳目の一つとしたいものである。