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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

十界互具

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 ほとけも地獄も心の中にある

 法華経だけに説かれた仏教の大哲理

  十界互具

十界とは、迷っているもの、悟っているものも含めたすべての境地を、上は仏界から下は地獄界までの十種類に分けたものである。

 十界互具とは、十界のそれぞれが十界を具えていることで、地獄も十界を具え、仏も十界を具えており、又人間も地獄から仏界までの十界を具えていると云うことである。だから人間は地獄の境界に堕ちることもあれば、また逆に仏の境界にまでのぼることが出来るのである。

 これは仏教の中で法華経だけに説かれていると云はれたのが日蓮聖人なのである。  誰でも人は、真の幸福を求めて生きている。

 ある人は、幸福は地位や名誉や財産であると思っている。しかしこれらのものは有限なものであり、失われ易いものである。このような生活の中には、真の精神のしあわせがあるとは思えない。

 ここに私達の人生には、釈尊の偉大な教化が必要となって来るのである。

 人の心と云うものは、善と悪とさまざまな世界を持っており、その両極端を往ったリ来たりしているのであるが仏の知見を求めて向上している。

 こうした人間の心の状態を日蓮聖人は、観心本.尊抄の中で、  夫れ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界なリ。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に三十種の世間を具す。この三千、一念の心に在り。若し心無くんばやみなん。介爾も心あれば、すなわち三千を具す・・・・・・。  と云う天台大師の摩訶止観第五の中の文を引いておられる。

 この御文の中で、まづ「十法界を具す」とあるが、この十法界と云うのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界である。

 この十法界は、華厳経の文から出ているものである。「法」と云うものは人間を中心に説かれたものであるから、この十法界も私たちの心の中に実現するものである。  十法界の中の第一の地獄界は、心に瞋恚(いかり)の心が生じた時てあり、この瞋恚はすべてのものを敵とするもので、人の心を最も苦しい境界に追いやるものである。

 第二の餓鬼界は貧欲(むさぼり)と云う迷いが心に充満した時で、地位や、名誉や財物をむさぼり、人の善意や好意までもむさぼってあくことを知らないために、自分自身が苦しむと云う境界を云うのである。

 第三の畜生界は愚痴のために心が盲目(めくら)になってしまい、ものの道理を分別することが出来ず、眼前の事ばっかりにとらわれて、苦しむ境界を云う。

 以上の三境界を貪瞋癡の三惑と云うのである。

 第四の脩羅界は、へつらいの心が起きた時で、自分勝手にへ理屈をつけて正しい道理を曲げてしまうので、常に争いの絶えない境界を云うのである。

 第五に人間界と云うのは、心が平静になって、人間らしさを取り戻した境界のことを云う。

 第六の天上界は、心がよろこびに満たされた境界のことを云うのである。

 以上の六つを六道と云い、凡夫の世界である。

 凡夫はこの六道を往ったり来たりすることから六道輪廻と云はれる迷いの世界である。

 第七の声聞界は、仏の教えを聞いて世の煩わしさを離れた境界のことである。

 第八の縁覚界は、仏の教えを聞いて、この教えを日々に出会う物事にあてはめ、思い合わせて独り覚るための修行の出来る心の境界のことである。

 第九の菩薩界は、自分自身の心の中に仏性のあることをさとり、慈悲の心を発して自他の区別なく、共々に仏になろうと深く修行する境界のことである。

 第十の仏界は菩薩の修行がおわり、迷いを離れて諸法の真理をさとり、自覚、覚他の二行を完成した絶対の境界であり、完全無欠の心の姿であって理想境である。

 この六道とは別の四つの法界を四聖と云い、四聖六道が十界と云うのである。

 この十界の心理は、一つ一つが孤立して心に存在するのでは無く、この中の一つの世界が心の中に現はれている時でも、そのほかの心の世界へと心は常に働いているのである。

 地獄界で説明すれば、地獄の鬼とも云ふべき石川五右エ門と云ふ大盗賊が、自分の子どもと一緒に釜ゆでの刑(地獄の苦しみ)を受けながら、自分はひもじく苦しみ(餓鬼)ながらも、子どもには何の罪もないとぐちり(畜生)ながら、世に盗人の種は尽きまじと口ばしる(修羅)。かわいい子どもには、こんなことはさせまい(人間)と自分の頭の上にあげて、何とかして助けようとする(天上)、この移り変る心の姿である。

 日蓮聖人は

  無顧の悪人もなを妻子を慈愛す菩薩界の一分なり  と本尊抄の中で申されて、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境界をも合せて、地獄界の中に存することを示しておられる。  これと同じように、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の九界にも、互に十界が具わっている。この状態を「一法界に又十法界を具すれば百法界なり」と申されたのである。

 以上が十界互具であり、これから展開する一念三千と云うすばらし仏教哲理の基礎ともなっている。

 法華経の中の如来寿量品第十六の中で、人間として生れた釈尊(お釈迦さま)は、自分は久遠の昔に、妙法蓮華経を覚って仏になった。だからもともとの仏が人間して生れて来たのであるから、その人間が仏になることはあたりまえである。

 「一心に仏を見たてまつらんと欲して自から身命を惜しまず(一心欲見仏不自惜身命)」と云う境地になれば、地獄界から菩薩界に至る九界の衆生は、仏界につつまれて「時に我れ及び衆僧、ともに霊鷲山に出づ(時我及衆僧倶出霊鷲山)」、仏界の仏のもとに他の九界の衆生が一体となる。と説かれている。釈尊はこれを真の成仏とされたのである。

 日蓮聖人はこの真の成仏の為の正しい修行法を私たちに示しておられる。そのお言葉は、 南無妙法蓮華経のお題目を身・口・意の三業に唱えることである。  真の幸福はここから生ずることを私たちに教えておられるのである。  

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