仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より
百八煩悩について教えてください。
布教研究所所員・中筋 妙玄寺住職 長谷川宣正
煩悩は梵語(ぼんご)で「クレーシャ」といい、もともと「執着(しゅつちゃく)する」という意味だそうです。大辞林には「人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。『三毒(さんどく)』『九十八随眠(ずいみん)』『百八煩悩』『八万四千煩悩』などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。染(ぜん)。漏(ろ)。結(けつ)。暴流(ぼる)。使(し)。塵労(じんろう)。随眠。垢(く)」と出ています。
よく百八煩悩といい、除夜(じょや)の鐘も数珠(じゅじゅ)の玉の数も百八つですが(野球のボールの縫(ぬ)い目の数も百八つですが、これはどうも関係ないようです)、百八という数についてはさまざまな説があります。
四苦八苦(しくまつく)を数字に置き換えて四×九の三十六と八×九の七十二をたして一〇八だとか(これはいかにもこじつけくさいですが)、一年十二か月と、大寒・立春などの二十四節気(せっき)と、二十四節気をさらに三つに分けた七十二候(一月は七十二候では雁北にむかう雉鳴くなどにあたります)をたして、十二+二十四+七十二で一〇八となり、人間の煩悩は一年中とぎれることがないとか(これはちょっといいかもしれません)。また、人間には眼・耳・鼻・舌・身・意という六種類の感覚器官があり、物事に対して好きか嫌いかどちらでもないかの三種類の感情を持つので六かける三で十八。浄(きれい)・不浄(きたない)の二種類の差別をしてしまうので、十八かける二で三十六。それに現在・過去・未来の三をかけて一〇八という説明もあります(これはかなりよくできてますねえ)。
でもこれらの説はすべて俗説だということです。また煩悩の数え方は宗旨宗派によって違い、かならずしも百八とは限りません。結局百八という数は、嘘八百(うそはっぴゃく)とか浪花八百八橋(なにわはっぴゃくやばし)とか大江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)とかいう言い回しと同じで、「多い」という言葉の言い換えなのでしょう。(「八万四千煩悩」などともいうようです)
煩悩の数え方は宗旨宗派によって違うと申しましたが、根本的な十の煩悩を十随眠(ずいみん)といい、十随眠のなかでも「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」の三つをとくに「三毒(さんどく)」といって、最も根源的な煩悩としているところは共通しているようです。「貪」とは貪欲(とんよく)、つまりむさぼりという意味で、欲求するものへの執着と言い換えることができます。「瞋」とは目をつりあげて怒ることで、「貪」とは逆に欲求しないものへの反応だということです。つまり自分の意にそわないことに対して腹を立てる心の動きです。「痴」とは一般に愚痴(ぐち)といい、真理に闇(くら)いために物事にたいして的確な判断を下せないことで、「無明(むみょう)」ともいいます。仏教では一般に、人間はこの三毒から免(まぬか)れないがゆえに苦から解放されないのだと説きます。三毒を源とする多くの煩悩を消滅させることによって悟りを開くのが仏教の目的というわけです。ところで、日蓮大聖人は『妙法尼御前御返事』に
南無妙法蓮華経ととなえさせ給(たま)ひしかば、一生(いっしょう)乃至(ないし)無始(むし)の悪業(あくごう)変(へん)じて仏(ほとけ)の種(たね)となり給(たも)ふ。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、生死即涅槃(しょうじそくねはん)、即身成仏(そくしんじょうぶつ)と申(もう)す法門(ほうもん)なり。
と説かれています。法華経を信じることによって、人間らしい煩悩を持ったままで仏と同じ境涯(きょうがい)に入ることができるのだ、と仰(おっしや)っているのです(煩悩即菩提)。ということは、除夜の鐘を衝いたり、数珠を繰ってお題目を唱える意味は、ひとつひとつ煩悩を断じていく、というのとは少し違うのではないでしょうか。
大聖人は『四恩鈔(しおんしょう)』に
この世界(せかい)をば、娑婆(しゃば)と名(な)づく。娑婆(しゃば)と申(もう)すは忍(にん)と申(もう)す事(こと)なり。故(かるがゆえ)に、ほとけをば能忍(のうにん)と名(な)づけたてまつる。 と仰っています。
人間に煩悩があるが故に、この世で生きていると他人に迷惑をかけてしまいます。と同時に他人からも迷惑をかけられてしまいます。それ故この世界を娑婆世界=堪忍土(かんにんど)というのですが、他人に迷惑をかけるということは罪を作っているということです。この罪を罪障(ざいしょう)といって、これを消し去ることが私たちにとってひとつの大きな目標であり、回向文(えこうもん)に「願わくは吾等(われら)無始(むし)以来(いらい)罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)」とあるのがこれです。煩悩から生じたたくさんの罪障を反省し消していくよう願うというのが、除夜の鐘の意味であり、お題目を唱えて数珠を繰る意味なのではないでしょうか。