仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より
菩薩と仏はどう違うのですか?
教研究所所員・宝塚妙玄寺住職 長谷川宣正
仏教では、この宇宙に十の世界(十界(じっかい))があると説かれます。
地獄(じこく)(怒(いか)りの世界)・餓鬼(がき)(貪(むさぼ)りの世界)・畜生(ちくしょう)(無知の世界)・修羅(しゅら)(争いの世界)・人間(にんげん)(平穏な世界)・天上(てんじょう)(喜びの世界)、この六つは迷いの世界で、六道(ろくどう)とか六凡(ろくぽん)といわれます。悟(さと)りを得ていない普通の人(凡夫(ぼんぷ))はこの六つの世界をさまよいます(六道輪廻(ろくどうりんね))。
これに対して声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)(独覚(どっかく))・菩薩(ぼさつ)・仏(ぶつ)という四つの悟りの世界(四聖(ししょう))があります。声聞とは、教えを聴聞する者という意味で、声聞界は仏の教え聞いて、おもに四諦(したい)を修習し、自分自身の悟りを目指す人の世界です。縁覚界は、おもに十二因縁(じゅうにいんねん)を観じる行(ぎょう)などによって、師を持たずに悟りを得ようとする人の世界です。菩薩界も、声聞・縁覚の二乗(にじょう)と同じく修行者の世界ですが、二乗の人たちが自分の解脱(げだつ)のみを目標にするのに対し、自分とともに他の人たちをも救い、悟りを得させることが目標であるという点が大きく違うところです。
法華経(ほけきょう)以前の大乗経典(だいじょうきょうてん)では声聞・縁覚の二乗はそれぞれに悟りは得るものの、真の仏の悟り(等正覚(とうしょうがく))は得られない、つまり成仏(じょうぶつ)できないと説かれますが、法華経方便品(ほうべんぼん)では声聞・縁覚・菩薩という三つの悟りがあるというのは仏の巧妙な手段(方便(ほうべん))で、実は誰もが菩薩となり成仏するのだと説かれます。そして十界とは、それぞれに独立して存在する世界ではなく、自己の心の状態を十種の世界として表したものである、ということです。
日蓮大聖人は『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』に、
「しばしば他面を見るに、ある時は喜び、ある時はいかり、ある時は平らかに、ある時は貪(むさぼ)り現じ、ある時はおろか現じ、ある時は諂曲(てんごく)なり。いかるは地獄、貪るは餓鬼、おろかは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり。他面の色法においては六道ともにこれ有り。四聖は冥伏(みょうぶく)して現れざれども委細にこれを尋ねばこれ有るべし。-(中略)-所以(いわゆる)世間の無常は眼前にあり、あに人界に二乗界無からんや。無顧(むこ)の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。ただ仏界ばかりは現じ難し。九界を具(ぐ)するを以(もっ)て強(し)いてこれを信じ、疑惑せしむることなかれ。
-(中略)-
末代(まつだい)の凡夫(ぼんぶ)、出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足(ぐそく)するが故なり。」
と、誰でも菩薩界に入ることはできるが、仏界を現すのは難しいと仰っています。
結局、仏と菩薩の違いを簡単に言うと、 「仏というのは、仏教者の理想の境涯であって、完成された菩薩をいう。菩薩は修行中の仏であり、仏は修行のできあがった菩薩であるといってよいであろう」(『法華宗読本』)ということになります。