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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

「ありがとう」って、もとは仏教の言葉だと聞いたのですが。

解説:布教研究所所員・宝塚 妙玄寺住職 長谷川宣正

 

ある国語辞典には、「室町時代頃は、感謝の意には『かたじけない』のほうが使われ、『ありがたい』は法悦(ほうえつ)の意の感謝の方に用いられた。元禄以後、法句経(ほっくきょう)からでた語とされ、宗教的内容を含む『ありがたい』が謝意を表す語として発展し、固定し、特殊化して、前代の『かたじけない』に取って代わった」とあります。

  「ありがたい」は本来、「難有」で「有(あ)り難(がた)し」と読まれました。「ありえない」または「めったにない」という意味で、それが「めったにないことをしていただいて感謝します」という意味になって「ありがとう」となったわけで、もとは仏教語です。

  大聖人の御遺文(ごいぶん)「聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)」に「ああ受(う)け難(がた)き人界(にんがい)の生(しょう)を受(う)け、値(あ)ひ難(がた)き如来(にょらいし)の聖教(しょうきょう)に値(あ)ひ奉(たてまつ)れり。一眼(いちげん)の亀(かめ)の浮木(ふぼく)の穴(あな)にあへるがごとし」とあります。「一眼の亀」はインド古来の説話です。深い海の底(生死の苦海)に、手足(善根(ぜんごん))がなく、焼けるように熱いお腹(なか)(熱地獄)と雪山のように冷たい甲(寒地獄)を持つ一眼の亀がいて、千年に一度だけ海面に浮き上がることができました。そのときにたまたま赤栴檀(せんだん)の浮木が流れてきて、たまたまその木に亀のお腹のサイズとぴったりの孔(あな)が開(あ)いていて、たまたまその木の上に打ち揚げられたので、海水でお腹を冷やし太陽で甲を暖めることができました。

  大聖人は「亀とは我々衆生(しゅじょう)、千年に一度海面に浮かぶのは人間として生まれること、浮木は仏の教えであり、中でも赤栴檀は法華経(ほけきょう)、サイズの合う孔(あな)とはお題目のことをそれそれ譬(たと)えている」とされ、人間として生まれ、仏教それも法華経のしかもお題目に出会うことの奇蹟・有り難さを心得るべきであるとおっしゃています。

  何かと嫌なことの多い世の中ですが、身に降りかかるすべての出来事に何かしらよい面を見出して、少しでも感謝の思いをおこして毎日過ごしていきたいものです。

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