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日蓮大聖人のおことば 布教誌『宝塔』に連載中の「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より解説者の役職・所属寺院名などは掲載当時のもの

一念無明の迷心は磨かざる鏡なり

出展:一生成仏抄」(昭定四四頁)
解説:布施義高 学林教授・青山持法寺裡

一念無明の迷心は磨かざる鏡なり

 人間の欲望には際限がありません。剥(む)き出しになった欲望の坩堝(るつぼ)の中で、人々は傷つけ合い、時に、おぞましく、目を覆(おお)いたくなるような惨劇(さんげき)を惹(ひ)き起こすことさえあります。それは、私達人間一人一人が、そもそも迷いの存在であり、不完全であることに由来していると思われます。
 迷いの存在である私達が苦悩から脱(のが)れんともがくさまを、法華経では「苦をもって苦を捨てんと欲す」(方便品)と説いており、私達を迷いに流浪せしめる本源的な煩悩は、人生の真の目的を見定め得ない、光が射さず視界を閉ざされた暗闇のごとき心(一念)、「無明」と言われます。
 しかしながら、大聖人は、本仏釈尊の大慈悲と智慧の光明を浴することによって、「磨かざる鏡」である私達の迷いの心が、仏心に通ずる聖なる心として蘇(よみがえ)ること(無明即明)、そのための肝要が、世俗的な欲望に染まった我(が)を捨てる心持ちで、本門寿量品の肝心、南無妙法蓮華経をありがたく頂戴し、不退転の決意をもって法華経の教えに生きることであると教えられています。
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼(か)の因果の功徳を譲り与えたまふ」-大聖人-
 それ故に大聖人は、法華経の信心を遮(さえぎ)る惑(まど)いを「元品(がんぽん)の無明」と称され、南無妙法蓮華経を「生死の長夜(じょうや)を照す大燈、元品の無明を切る利剣(りけん)」と仰せられているのです。

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