日蓮大聖人のおことば 布教誌『宝塔』に連載中の「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より解説者の役職・所属寺院名などは掲載当時のもの
解はなくとも信心あるものは成仏すべし
解説:田中豊隆
このおことばは、弘安三年(一二八0)二月、檀越遠江国磐田郡新池の邑主新池左衛門尉氏に与えられた御書の一節であります。
釈尊のお弟子に、兄を莫訶半託迦、弟を須梨槃特と言う兄弟がおり、兄は頗る聡明であったが、弟は多くのお弟子の中で健忘第一といわれた程で自分の名前さえ忘れる位の愚かさでありました。ある時、外道が彼が自分の名前を忘れる愚鈍を軽んじめ噺笑ったところ、須梨槃特は、その外道に向って"我が名は他人さえ記憶すればよい、自分には用がない〃と答えたという位の愚鈍の代表でありました。
兄と共に仏門に入りましたが、三ヶ月かかっても一偈すら覚えることができず、かえって傍で毎日その偈を聞いていた牧夫が覚えてしまい、その牧夫に偈を習った程でした。これをあわれんだ釈尊は、一本の箒を与え、その名を記憶するようにと教えられたが数日たっても記憶できなかったが、なおも一心にして正信であったので、遂に阿羅漢果を得、法華経(五百弟子受記品)に来って普明如来という記別(仏となる)を受けました。
大聖人さまは、「鈍根第一の須梨槃特は智慧もなく悟りもなし、只一念の信ありて普明如来と成り給ふ」と、釈尊の教示を一心に信じた須梨槃特の態度を称えておられます。
末法凡夫の私たちは、須梨槃特の唯信無解(解りなくとも、ただ信ず)のごとく、一心に法華経を信受して仏となることが最も大切なことであります。